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死んだ犬の話:16年間共に暮らした犬が死んだ後に残した言葉(犬は自分が家族の一員と思っていたに違いない)

 
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団塊世代ど真ん中です。 定年退職してからアルト・サックスを始めました。 プロのジャズサックス奏者に習っています。 (高校時代にブラスバンドでしたけど当時は自分の楽器を持っていませんでしたので、それっきりになりました) 主にジャズについて自由に書いています。 独断偏見お許しください。

 

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【初めに】

今日はいつもと違うことを書きます。犬の話です。

 


 

我が家に子犬がやってきた

子供の頃犬を飼っていました。

16年間私の家で一緒に暮らしました。

スージーという名前の雌犬でした。

もともとは、スージーは当時私の家の近所に住んでいたアメリカ人が飼っていた犬です。

だからスージーと名付けられたのです。

そのアメリカ人が急に国に帰ることになり

生後5か月で私の家にもらわれてきたそうです。

とても可愛い子犬だったので、母はアメリカ人が飼っている頃から良く知っていて、帰国の話が出た時、すぐにもらうことにしたそうです。

全部母に聞いた話です。

というのが、実は私とスージーはほぼ同じころに生まれたようなのです。

ですから私には小さいころのスージーの記憶がありません。

私とスージーは一緒に育ったわけです。

雑種でしたが2種類くらいの雑種で、全体は白色で茶色の斑点がありました。

耳は大きめで普段は立っていましたが、時には垂れていました。

しっぽは大きくてクルリと巻いていました。

そのしっぽをハタキのように振っている姿が目に残っています。

脚は余り長くはなく、中型犬サイズでした。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  

一緒に暮らした日々

私の記憶にはっきり現れるのは、私が小学校の頃からです。

広い庭があったので(立派な庭という意味ではありません。文字通りただ単に広かったのです。そこに畑なども作って野菜を収穫したりしていました)
スージーはそこに全くの放し飼いでした。

首輪をしたことなど一度もありませんでした。

勿論一緒に散歩をしたこともありません。

いまのペットとは全然違います。

頭を撫でたり可愛がったりすることもありませんでした。

ただ一緒に暮らしていたのです。

庭の隅に父が犬小屋を作りましたが、スージーは気にいらなかったようで、そこに入っている姿はほとんど記憶にありません。

冬でも庭の落ち葉の中にくるまって寝ていたことを覚えています。


 

その頃の我が家にはカメラというものがありませんでした。

ですからスージーの写真は一枚も残っていません。

ただ一度、三歳下の妹が四歳くらいの時にスージーが産んだスージーにそっくりな子犬を抱いて庭に立っている写真を誰かが撮ってくれたものがあったのですが、その写真は今は行方不明です。

 

スージーは何度も子供を産みました。

一度に5、6匹を産みました。

子犬たちも可愛かったので、すぐにもらわれて行きました。

そういうことが何度かありましたが、はっきりとした回数はよく覚えていません。

スージーは一生のうちに何匹の子供を産んだのでしょうか?

 

私が小学校高学年から中学生のころ

私は台所の傍の掘りごたつで夜勉強をしていました。

その隣には土間の部分があり、そこには井戸がありました。

古い日本の民家だったのです。

その勉強している場所と土間の間は木製の引き戸があったのですが

その引き戸にちょうどスージーが顔を出せるくらいの穴が開けられていました。

その穴からスージーは顔を出して顎を桟の上にちょこんと乗せて

私が勉強しているところを眺めていました。

私は勉強しながら時々スージーのほうを見ていました。

もしかしたらスージーは私を見守ってやろうという気持ちだったのかもしれません。

私が勉強を止めて片づけを始めると、スージーは穴から頭を引っ込め、自分で決めた井戸の横の寝床に戻って行ってました。
どう考えても少なくとも私に付き合ってくれていたことは間違いないのです。

私は勉強することがまるで趣味のように好きだったので(親からは「早く寝なさいと時に言われていました)、深夜までそうやって二人(?)で過ごした多くの時間を覚えています。

それは今思えば幸せな時間でした。

そこには何の迷いも煩悩もなく、ただ静かに時間が流れていました。


 

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犬の死

私が高校1年生で16歳の頃、すかっり老いたスージーは動きも緩慢になり目もしょぼつかせていました。

そして蚊が媒介するというフィラリアという病気になりお腹に水が溜まり、お腹が大きく膨らむようになりました。

何度か獣医さんに来てもらい、お腹の水を抜いてもらいました。

ある日学校から帰ってくると、母からスージーが死んだよ、と聞かされました。

スージーは例の井戸のある土間のところで、すでに固くなっていました。

私と母と妹の3人で、庭のザボンの木の根元に穴を掘りスージーを埋めました。

母はポロポロと涙を流していました。

あれほど泣いている母を見るのは初めてのことでした。

私は何故か一滴の涙も出ませんでした。

私は大き目の石を持ってきて、そこへ「スージーの墓」と墓碑銘を書き込みました。

 

後日、母は私や妹に「スージーは私がこの家に嫁いでからのことを全部知っている」と言いました。

そしてスージーに粗末な食事しか与えなかったことをとても悔いていました。

スージーのご飯は残り物にみそ汁をぶっかけたようなものでした。

毎日そんなものを食べていました。

母は「せめてたまには安いのでもいいからお肉とかを食べさせたかった。
魚肉ソーセージすら与えたことが無かった」と悔やんでいました。

私と妹は「そんな粗食だったから、16歳まで長生きできたんだよ」と慰めました。


 

犬が残した言葉

今年91歳になる母が、スージーのことで話していないことがあった、と言い出しました。

何なのだろうと、聞いてみると

実はスージーが死んで何か月か経って、スージーを霊能がある人に頼んで弔ってもらったことがある、ということです。

私の家はキリスト教徒です。

死んだ父は特に厳格で、毎週日曜日には教会に礼拝に行き、食事の前には「神への感謝の言葉」を唱えていました。
父が「アーメン」というまで箸に手をつけてはいけませんでした。

そんな父に比べると、母の方はゆるーいキリスト教徒でした。

毎年「高島易断」の本を買ってきて運勢を見るような、日本的なクリスチャンだった訳です。

そんな母が人を通じて知り合った霊能があると言われている人に、スージーの話をしたことがあったそうなのです。
特に粗末な食事の後悔のことなどを話したそうです。

するとその霊能者の方が「一度お宅に行って弔ってあげましょう」ということになったそうです。

母はこのことが父に知れると父がひどく怒ることを知っていたので、内緒にしていていたそうです。

 

スージーを埋めた場所で、霊能の方が弔って下さったそうです。

母はその時肉を買ってきて墓前に供えたそうです。

すると、霊能者の方はこう言ったのだそうです。

『スージーが言っています。

「私のような犬の分際なのに、このように手厚く弔ってもらってありがたいことだ。 私があなた(母)を一生見守り続けます」と』

 

母はスージーに守られて生きてきたのです。

スージーが死んだとき、一滴の涙も流さなかった私の目に涙が滲みました。

スージーは自分を家族の一員と思っていたに違いありません。

だから、生きている時も私達を見守っていました。

そして、死んでからも・・・・

 

母にとってスージーはペットなどという存在ではありませんでした。
私と妹にとってはスージーは「きょうだい」のようでした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆  
最後まで読んでいただいてありがとうございます。

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